武田家に2代で仕え
真田の名を知らしめる
連載初回は、真田幸村のルーツから尋ねましょう。幸村の祖父である幸隆(ゆきたか)は信濃国小県郡(今の長野県東御市)の名族、海野氏とともに栄えた在地領主。しかし、天文10(1541)年5月に武田信虎の攻め入りで所領を失います。その直後、「武田信虎が、息子の信玄(晴信)によって国外追放された」とのクーデターの情報が入ります。そこで幸隆は、あえて武田信玄の家臣となり、失った領地を回復するため動き始めるのです。家臣になってからというもの、命令に忠実に従い、見事な策略で成果を挙げる幸隆。その実力を信玄は高く評価し、遂には、失った領地を取り戻すに至りました。
幸隆には4人の息子がおり、幸村の父である昌幸(まさゆき)は三男。7歳から甲府で武田信玄に仕え、成長につれ父親譲りの切れ者ぶりを発揮。信玄から身内同然に愛され、「武藤」の姓を与えられたほどで、築城の名手として今も歴史ファンの多い一人です。こうして真田家は幸隆と、昌幸を含む息子3人が武田二十四将になるなど、一目置かれる存在となりました。
真田家の当主として大活躍
昌幸を待つ幸村は―
昌幸には栄禄9(1566)年に生まれた長男の信幸と、1歳差の次男、幸村という2人の息子がおり、武田への忠誠の証明として、甲府で暮らしていました。しかし元亀4(1573)年、彼らが10歳にならない内に信玄が病死。天正2(1574)年にはその後を追うように幸隆も亡くなりました。昌幸の2人の兄が真田家を継ぐも、天正3(1575)年の長篠の戦いで2人とも討ち死に…と悲しい出来事が続き、最後は昌幸が真田の名を継ぐことになるのです。
昌幸は信玄の息子、勝頼(かつより)の命で上野国利根郡(今の群馬県)にある沼田城の攻略をスタートしました。武田家がもらい受けるはずの城にもかかわらず、北条氏政が隙を突いて押さえてしまったからです。力でねじ伏せず城将に金を贈り、攻撃する前に降伏することを勧めた昌幸の作戦が功を奏し、天正8(1580)年、沼田城は戦を起こすことなく武田の軍門に下りました。この功績があって、上州(今の群馬県)方面の司令官の地位を築いたのです。
その間、信幸・幸村の兄弟は甲府で父の帰りを待っていましたが、「織田と徳川が手を組み、武田の領地を奪いに来ている」との情報が入り、危機感を募らせていたといわれています。その時、幸村は14歳でした。
※次回は11月22日号に掲載
関連キーワード