べらぼうな才能を発揮!
田沼意次のルーツは和歌山にあり!
- 2025/3/13
- フロント特集
NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」に登場する老中・田沼意次(演・渡辺謙)。田沼家は意次の4代前から紀伊徳川家に仕えた一族で、和歌山とゆかりがあったのです。

田沼意次像(静岡県牧之原市)
悪徳政治家? 希代の改革者?
評価が極端に分かれる田沼意次
「あの成り上がり者めが!」。石坂浩二が演じる長い眉毛が特徴の老中・松平武元(たけちか)が、同じ老中の田沼意次(おきつぐ)に対して陰で悪態をつく場面が、「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)〜」で放送されていました。
これまでの歴史教科書などでは、“私腹を肥やす悪の賄賂政治家”の象徴のように記載されていた田沼意次。ところが「べらぼう」では、渡辺謙を配して“革命的な経済人”の側面が描かれています。賄賂を受け取るシーンもありましたが…。
田沼意次の父・意行(もとゆき)は紀伊徳川家の家臣で、徳川吉宗が8代将軍に就任した時、付き従って幕臣(旗本)になりました。意次は紀州から来た田舎者の家系だからと、名家出身ぞろいの他の老中から軽んじられていたようです。特に松平武元は老中首座で、吉宗の大御所時代から老中職に就いていた重鎮。プライドが高く、新たな経済政策を推し進める意次と反りが合わなかったのでしょうか。
田沼家のルーツと意次の実像について、令和2年度和歌山県文化功労賞を受賞し、現在は和歌山信愛大学・同女子短期大学で非常勤講師を務める歴史学博士の小山譽城(よしき)さんの著作物と解説で話を進めます。
流浪の田沼家が紀州で仕官
意次の父が吉宗に見い出される
小山さんが執筆した『歴史読本2014年1月号』の「田沼意次追放事件」によれば、藤原氏の末裔(まつえい)の佐野庄司成俊(なりとし)流の6代重綱(しげつな)が、下野国(現在の栃木県)安蘇(あそ)郡田沼邑(むら)に住んだことから田沼姓を称することになります。北条義時が鎌倉幕府2代執権に就いていた頃の話。
以後、田沼氏は関東近辺を所領とし、戦国時代には上杉氏、武田氏、成田氏に仕え、武田氏滅亡後の忠吉の代には信濃国(現在の長野県)を流浪。その子・吉次が徳川頼宣(よりのぶ)に召し抱えられ、吉重、義房、意行の4代にわたって紀伊徳川家に仕えました(次項の家系図参照)。吉次と吉重の墓が、金龍寺(和歌山市金龍寺丁)にあります。
小山さんは「1716年、吉宗が将軍として江戸城に入る際、紀州藩から有能な家臣200人ほどを連れていきます。その中の一人が田沼意行。決して裕福とはいえない家に育った意行ですが、気遣いができて人望が厚く、数学に強い秀才型だったと伝わります」と解説。さらに「歌の道にも優れ、歌人の冷泉為久に師事したほど。意次も父の影響を受けたのか、歌・書・画・茶などの道に通じていました」
吉宗の信頼が厚かった意行は、1728年に日光参詣に同行。1733年に加増されて相模国(現在の神奈川県)内で600石を与えられ、翌年12月に47歳で死去。意次が田沼家を継ぎます。弱冠17歳の若者でした。

田沼家の墓(金龍寺)
私利私欲のない政治家
革新的な経済政策を推進
権力抗争に敗れて失脚

小山譽城さん
田沼意行の長男・意次(幼名・龍助)は、16歳で9代将軍徳川家重の小姓として出仕。その年の12月に意行が死去し、翌年3月に田沼家(600石)を相続しました。
小山さんは「将軍家重は言語不明瞭で、家重の近臣だった大岡忠光だけが、言葉を理解できたそう。意次は忠光を見習って家重の言葉を聞き分けられるように努力し、家重の信頼を得るようになりました」と解説。また、「父の意行と同様、身分を問わず他人に誠意を持って接し、細かい配慮が行き届いた態度で務めていたことも高評価につながったようです」と意次の人物像を話します。しかもイケメンで、小姓の頃から大奥勤めの女性陣からモテていたとか。
40歳になった意次は、相良藩(現在の静岡県牧之原市)1万石の大名に列せられ、評定所に出座(しゅつざ)、幕政に参画するように。
「家重は、『行々こゝろを添て召仕はるべし』(「徳川実紀」)と、意次を厚遇するよう息子の家治に遺言。父の遺志を尊重し、意次を重用します」
意次は老中に任ぜられ、側用人(そばようにん)も兼ねて幕政の中心で才能を発揮します。吉宗の享保の改革で幕府の財政難は解消されましたが、家重の代に凶作が重なり、増税への反発から各地で一揆が発生し、幕府の財政は困窮状態に。
意次は、農業主義から重商主義に政策を転換。株仲間の推奨、銅座などの専売制の実施、鉱山や新田の開発、蝦夷(えぞ)地(北海道)の開発計画などで商業を盛んにし、税の増収を図ります。私利私欲なく猛烈に働き、加増に継ぐ加増で5万7千石を拝領するまでに大出世。紀州出の田舎者の家系が、ついに“成り上がり”ました。
ただ、幕府内の情勢は一変。意次の推薦で家治の側室になったお知保の方(演・高梨臨)が産んだ嫡男の家基が、18歳で謎の死。家治の次の将軍は一橋治済(はるさだ)の長男・豊千代(後の家斉)に決まりました。
「家治が死去する同年に、老中を罷免されます。当時、江戸の大火、天変地異、一揆勃発、物価高騰、賄賂や汚職の横行などで世情が乱れていました。治済は実子の家斉(いえなり)の評判を良くするため、それまで昵懇(じっこん)だった意次のせいにして悪評を広め、権力の座から追い落とす必要があったのでしょう」

田沼意次像(写真提供/静岡県牧之原市)
さらに、息子の意知が江戸城内で切りつけられたことが原因で亡くなり、孫の意明(おきあき)が田沼家を継いだものの、わずか1万石。失意のうちに意次はこの世を去ります。
小山さんは「悪評高い意次ですが、実は革新的な商業政策を行い、日本の近代化を早めるなど傑出した人物でした。歴史は常にアップデートされるもので、それまでの常識が実は違っていることも。だから歴史は面白いんです」と総括します。
紀州にゆかりがある田沼意次が、「べらぼう」でどう描かれていくのか。今後が楽しみですね。
【参考文献】「歴史読本2014年1月号」(KADOKAWA)
田沼意行・田沼意次 年表
1686(貞享3) | 田沼意行が生まれる |
---|---|
1716(正徳6) | 徳川吉宗が8代将軍に就任 意行が将軍家家臣になる(300俵) |
1719(享保4) | 意次が生まれる |
1733(享保18) | 意行が600石に加増 |
1734(享保19) | 意次が9代将軍家重に仕える(16歳) 意行が死去(47歳) |
1735(享保20) | 意次が田沼家を継ぐ(17歳) |
1748(寛延元) | 御小姓組番頭になる |
1751(宝暦元) | 御用取次になる |
1758(宝暦8) | 遠江相良藩主1万石に(40歳) |
1760(宝暦10) | 家重が隠居し、家治が10代将軍に就任 |
1772(安永元) | 老中に就任(54歳) |
1775(安永4) | 蔦屋重三郎が 「吉原細見~籬(まがき)の花」を刊行 |
1779(安永8) | 徳川家基が死去(18歳) |
1784(天明4) | 意知が死去(36歳) |
1785(天明5) | 5万7千石に加増 |
1786(天明6) | 10代将軍家治が死去 老中罷免 |
1788(天明8) | 意次が死去(70歳) |
田沼家 家系図

注…□印は途中略
徳川家 家系図

※丸数字は将軍職継承順
和歌山城の桜を楽しもう!
和歌山城~光の回廊~
春季ライトアップ
四季を通じて夜の和歌山城の魅力が創出される「和歌山城~光の回廊~」。春季は「和歌山城公園桜まつり」(開催期間は開花状況による)に合わせ、一の橋付近のソメイヨシノが初めてカラーライトアップされます。
問い合わせ | 073(435)1044 和歌山城整備企画課 |
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お花見遊覧
桜が咲き誇る和歌山城の風景を、手作りの木舟に乗って船頭の案内を聞きながらお堀から楽しむ「お花見遊覧」。一の橋の南側約80mの受付場所から乗船し、東堀、北堀を通って御橋廊下をくぐって戻ります(約20分)。運行期間は、3月20日(祝)から桜が散るまで。午前10時~午後4時に、現場で当日受け付け。料金は、大人1000円、子ども(小学生)500円、乳幼児は無料(2人目から子ども料金)。雨天中止。
問い合わせ | 090(3164)1603 アルゴス ※桜の季節が終わったあと梅雨入りまでは、土・日曜、祝日に運行 |
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参加者募集
1日講座
田沼意次の虚像と実像
小山譽城さんが講師を務める1日講座を開催します。本紙で掲載できなかった秘話も披露。ぜひご参加ください。
日時 | 4月20日(日) 午前10時~11時半(受け付け9時40分から) |
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場所 | リビングカルチャー倶楽部 フォルテ教室 (和歌山市本町、フォルテワジマ4階) |
参加費 | 1000円 (資料代込み・当日お支払いください) |
定員 | 30人 |
申し込み方法 |
①参加者の住所 【メール】件名に「1日講座」と入力し、メールアドレスliving@waila.or.jp へ |
締め切り | 4月7日(月) 応募者多数の場合は抽選。 当選者にはメール、またはハガキ、FAXの返信で4月8日に送付します(電話連絡の場合もあります) ※4月15日まで弊社から連絡がない場合は、抽選漏れとご理解ください |
問い合わせ | 073(428)0281 和歌山リビング新聞社(祝日除く月~金曜午前9時半~12時、午後1時~6時半) |