大坂城の唯一の弱点に
自ら築いた「真田丸」
大坂城に入城した真田幸村たち浪人は、積極的に徳川を攻める策を主張。しかし豊臣方の重臣たちは籠城策を採用し、その間に家康は大坂城を完全に包囲。窮地に立たされます。
そこで、幸村は大坂城で一番手薄な南側の堀の外に、とりでを築くと申し出ました。大坂城の堀を背にし、空堀と3重の柵で囲われた強固な要塞(ようさい)。これが、来年の大河ドラマのタイトルにもなっている「真田丸」です。
そしてついに、大坂冬の陣が始まりました。幸村の狙いは、敵を真田丸に引きつけてたたくこと。まずは前方にある篠山という小山に鉄砲隊の一部を配置させ、毎日、徳川方の前田利常隊に攻撃を加えました。すると、いらだった前田隊は真田丸の堀に攻め寄せてきます。それに気付いたほかの徳川軍も慌てて後に続き、総攻撃を開始。しかし、これは幸村の思うつぼ。大軍が攻め寄せるのをじっくりと待ち、矢や鉄砲で一斉に攻撃を加えました。事態を察した先頭集団が退却しようとするも、後ろから来た兵とぶつかり、さらに混乱を極めるありさま。これを見た家康は、諦めて撤退を命じました。
さえ渡る策で徳川を撃退
戦いは夏の陣へ
父に負けない名将ぶりで、徳川軍に数千もの戦死者を出し、大打撃を与えた幸村。その名を天下にとどろかせます。
しかしここで、家康は豊臣秀頼と母親の淀殿に講和を持ちかけます。その内容には、大坂城の堀を埋め立てることや防御施設の破壊などが含まれており、幸村たち諸将は反対。にもかかわらず慶長19(1614)年12月、講和は成立し、埋め立てと破壊が始まります。もちろん、真田丸も徹底的に壊されてしまいました。
つかの間の平和の中、幸村のもとへ徳川方である叔父の信尹(のぶただ)がやってきました。家康の命により、幸村を寝返らせるためです。「10万石を与える」とも言われた幸村ですが、この誘いをきっぱりと断り、決死の覚悟で家康と対峙する姿勢を示しました。
その頃大坂城内では、徳川家が講和の条件に含まれていなかった内堀まで埋め立てたことで、不満が爆発。大坂城を無力化させる家康の策略に気付き、両者は完全に決裂し、大坂夏の陣に突入していきます。
※次回は7月25日号に掲載
これが見どころ
「ゆきむらさま」
大河ドラマ「真田丸」くどやま推進協議会の公式キャラクターが、一般公募から生まれました。真田ゆかりのまち「九度山」をPRするため活躍中です。現在は着ぐるみが完成し、九度山町役場のロビーに展示されています。
九度山町役場 | ☎0736(54)2019 |
---|
関連キーワード