2度目の徳川との戦い
真田の戦略が再び光る
真田昌幸・幸村の父子は石田三成に、そして幸村の兄である信幸は徳川につくことを決めた慶長5年(1600年)。親子でありながら3人はこの場で敵同士となりました。昌幸側は急いで上田城へと戻り戦に備え、信幸は徳川家康の息子、徳川秀忠の陣に加わり、名を信之と改め決別の意を表したといわれています。
そして、関ヶ原の戦いとともに、第二次上田合戦が勃発。関ヶ原に向かう途中の秀忠は上田城にいる昌幸と連絡を取り、数日かけて降伏を迫りました。最初は降伏するかに見えた昌幸が一転して戦う構えをとったため秀忠は怒り、全軍を上田城に向かわせます。実はこの時点で関ヶ原へ向かうのが予定より遅れており、初陣で手柄を上げたいと考える秀忠の足止めをするために、あえて挑発したようです。
今回も徳川軍が約3万8000、対する真田軍はわずか3000〜5000と数では圧倒的に不利。しかし、第一次上田合戦と同様に昌幸の策略がさえ渡ります。昌幸と幸村が自ら城外へ躍り出て敵軍を引きつけ、相手が川を越えて城壁の近くまで追って来ると一斉に攻撃。同時に城門の横にある林に忍ばせておいた兵が側面を突き、混乱した徳川軍は後退。しかし川の上流にある堤防が破壊され増水したため、溺れる兵が続出したとのこと。
慌てて全軍を撤退した秀忠でしたが、時すでに遅し。関ヶ原の戦いは終わっており、父の家康は激怒。しばらく面会を許さなかったといいます。
死罪の命を受けた昌幸・幸村
それを救ったある人物とは
こうして真田軍は2度も徳川軍を翻弄(ほんろう)しましたが、関ヶ原の戦いでは徳川軍率いる東軍が勝利。上田城での活躍もむなしく、昌幸と幸村を死罪にせよとの命が家康から下ります。
この絶体絶命の危機を救ったのが、兄の信之です。彼は妻の父であり、家康の重臣として名高い本多忠勝にすがり、2人の助命を嘆願します。その際、「2人を死罪にするのなら、私にも切腹を申し付けください」と迫ったという話も残っているほどです。
そのかいあって2人は死罪をまぬがれ、高野山へ追放されるにとどまりました。このとき昌幸は54歳、そして幸村は34歳。ここから私たちの住む和歌山県とのつながりが生まれるのです。
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