3倍以上の兵を退けた
名将・昌幸の実力とは
自分の力で手にした領地を、「北条に譲れ」と家康から命じられた真田幸村の父・昌幸。家康に帰属していたものの、この命令は納得できません。拒否すると家康は怒り、昌幸のいる上田城に攻め入りました。天正13(1585)年、「第一次上田合戦」の始まりです。
家康は約7000もの兵を上田城に向かわせました。それに対し、上田城の兵は約2000。3倍以上もの相手と、真田軍はどのように戦ったのでしょうか。
まず、城の前で徳川軍を待ち受けた真田軍が、徳川軍の軍勢に恐れをなしたかのように逃げ出します。すると、自信がついたようにジグザグに交差した柵を越え、一気に門に迫る徳川軍。そのタイミングで、大木や大石を上から落とすのです。徳川軍は思わず後退するも、ジグザグに交差した柵が邪魔でなかなか逃げられません。そのうち、精鋭部隊による追撃が始まり、徳川軍は次々に討ち取られます。逃げた兵も増水した川で溺れるなどの大打撃。結果、真田軍の犠牲者はわずか40人に対し、徳川軍の犠牲者は1300人に上り、撤退したといわれています。
そんな上田城では現在、真田幸村と十勇士に扮した「信州上田おもてなし武将隊」が魅力を観光客に伝えています。メンバーの一人は「これだけの大軍を退けた城は世界的に見ても珍しい。実際に見て、城に宿る不屈の精神を感じてください」と語ります。
逃げた? 戦った?
その時、幸村は―
昌幸が采配をとっていた時、上杉景勝の人質だった幸村がどうしていたかは諸説があります。「景勝が不在時に逃げ出し、豊臣秀吉の元へ人質として差し出された」「景勝の許しを得て自分も上田合戦にはせ参じた」など。どれもドラマチックですが、実際には、幸村はあくまで人質。突然景勝の下を去るわけにはいかず、真田の勝利をただ願っていたという説が主流です。
「幸村ほどの人物ならやりかねない」と思わずにはいられないようなヒーロー性が、幸村にはあったのかもしれません。
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