「表裏比興の者」と呼ばれ
戦国の荒波をゆく昌幸
真田幸村の父・昌幸が見事に群馬県の沼田城を攻略したものの、仕える武田家には大きな危機が迫っていました。織田と徳川が手を組み、武田の領地を奪おうとしていたのです。当主の武田勝頼は、侵略に備え新たな城を築くことにしました。その時、昌幸は実力を認められ、築城に携わるよう命ぜられたともいわれています。
しかし、織田・徳川軍の侵攻が激しさを増し、勝頼はすぐに城を捨て、逃げるほかなくなりました。そして最後は家臣に裏切られ、自害して果てます。天正10(1582)年のことでした。
昌幸は悲しみに暮れる一方で、冷静に「さあ、どうやって生き残るか」と考えていたに違いありません。なんとその後、勝頼を追い詰めた織田信長に降伏を申し出て家臣となり、3カ月後に本能寺の変で信長が亡くなると、上杉→北条→徳川…と、帰属先を次々に変えて動乱の中を駆け抜けます。
その様子は、あの豊臣秀吉が「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」、つまり食わせもの、卑劣なふるまいをする者…と称したほど。しかし、そのおかげで真田家は滅びずに済んだのです。
幸村、2度目の人質生活
今度は上杉景勝の下へ
徳川についてから、真田は最前線で北条・上杉と戦う一方で、天正11(1583)年に上田城(現・長野県上田市)の築城をスタート。善戦するも、徳川と北条が和睦したため、「真田が持っている沼田城も北条に譲れ」と命じられます。自分の力で手に入れた沼田を渡すことに納得できない昌幸は徳川と決別。上杉に援助を求め、その証として、19歳の幸村は新潟県にいる上杉景勝の下へと送られるのでした。
武田家に続く、2度目の人質生活。しかし幸村は上杉景勝から大変好かれていたらしく、出仕の報酬として1000貫もの高給が与えられたと言われています。兄の信之が「幸村は性格が穏やかで、怒ることもない」と語ったほどの好人物。誰からも愛される魅力が、生まれつき備わっていたのかもしれません。
人質ながらも、景勝や切れ者武将として名高い直江兼続と親交を深める幸村。しかし、父と兄がいる上田城に徳川軍が攻め入り、第一次上田合戦が勃発。そして、幸村には「景勝の下を抜け出し、豊臣秀吉の下に行け」との命が下るのです。
※次回は年末年始号に掲載
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