歌や小説へと形を変えて
幸村の存在は今も生きる
徳川家康の目前まで迫りながら討ち取ることがかなわず、49歳の生涯を閉じた幸村。その見事な散りざまには敵方ですら敬意を示し、また、民衆の心にも深い感銘を与えました。
当時の京では「花のようなる秀頼さまを、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたり鹿児島へ」との歌が流行したといわれており、実は幸村は生きていて、豊臣秀頼を連れて鹿児島へ逃げたのではないか、とのうわさが広まったほどです。
また、幸村に仕えた10人の忍、「真田十勇士」が広まったのも幸村の死後。モデルとなるような人物がいたとはいえ、架空の存在である十勇士の名前が周知されたのは、江戸時代の元禄期頃に発表された小説『真田三代記』や、明治に発表された『立川文庫』などで取り上げられたことがきっかけだったようです。
こうして幸村は死してなお人々の心をつかみ、後世に残る武将となりました。
町民から愛されていた
九度山に伝わる逸話の数々
幸村の逸話は、和歌山県の九度山町にも残っています。
第二次上田合戦の後、蟄居(ちっきょ)を命じられた昌幸・幸村親子。彼らが暮らしていた真田庵には「雷封じの井」と呼ばれる井戸があり、屋敷に落ちた危険な雷を幸村が取り押さえて井戸に封じ、人々の難を救ったとの伝説が残っています。
また、大坂の陣に加勢することが決まった幸村を、九度山から逃がしたのは地元の者たちだともいわれています。
「いつも気に掛けてくれているお礼に」と、地元の人々を招いて酒宴の席を設けた幸村。全員が酔いつぶれて寝てしまった頃、幸村一行はこっそり大坂城へ。翌朝、それに気付いた見張りが幸村はどこかを尋ねたところ、地元の人々は「3日前にどこかへ行ってしまった」と口にしたとか。これらから、日常的に人々と交流し、厚い信頼を寄せられるようになった姿がうかがえます。
現存する資料が少なく、推測や創作で語られることの多い幸村。その話はどれも、憧れや尊敬のまなざしが感じられる、温かいものです。
今週号が最終回になります。ご愛読ありがとうございました。
ここが見どころ
「第1回紀州九度山 楽市楽座」
10月18日(日)午前10時~午後4時、「道の駅柿の郷くどやま芝生広場」(伊都郡九度山町)で約80ブースが出店する大型フリーマーケットが開催されます。九度山町内の人気飲食店が出店するほか、戦国ブースには、真田幸村などの甲冑(かっちゅう)を展示した本陣を構え、戦国グッズの販売も予定されています
問い合わせ | 0736(54)2019九度山町役場 |
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