−第56回−文化財 仏像のよこがお「新上西門院供養の千手観音立像」
- 2024/7/25
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- 文化財 仏像のよこがお
前回(7月4日号)に続き、高野町細川の八坂神社境内に隣接する阿弥陀堂に安置される仏像について取り上げます。
阿弥陀堂は平安時代後期造像の阿弥陀如来坐(ざ)像を本尊とする三間四面(さんけんしめん)の建物で、細川地区の住民が集う村堂であったと見られます。阿弥陀堂には本尊像以外にも、多数の仏像が伝来しています。
例えば、薬師如来坐像は、大坂(現大阪)の定慶という仏師が、1671(寛文11)年に造像し、1703(元禄16)年に高野山小田原の仏師・市左衛門によって厨子(ずし)があつらえられたこと、そして、その厨子は八坂神社別当の薬師寺僧応雅阿闍梨(あじゃり)が願主となって制作したことが記されています。おそらく、明治時代の神仏分離で薬師寺が廃された際に、本尊像がすぐそばの阿弥陀堂に移されたのでしょう。
もう一体、銘記により造像の経緯が判明する仏像があります。
像高38・5㌢の小さな千手観音立像で、彩色せず、木肌のままに仕上げ截金(きりかね)で装飾した、堅実な出来栄えの像です。台座裏側に「調進/新上西門院儀/三七日御忌日仏/千手観音菩薩/正徳二年辰五月十八日/大仏師/法橋康寿」と記されています。
この銘記から、1712(正徳2)年に康寿という仏師により、新上西門院(しんじょうさいもんいん)の三七日供養のために造像されたことが分かります。新上西門院(1653~1712年)は、俗名鷹司房子。1669(寛文9)年に、霊元天皇に入内して皇后となっており、東山天皇の養母にあたります。
仏師・法橋康寿(細井康寿)は、法蔵寺(福島県三春町)の阿弥陀如来坐像の銘記に「京都油小路五条下ル町之住/定朝二十六世/勅許大仏師」とあり、天皇家との関係性が伺えます。この像は新上西門院没後、四十九日までの忌日(きじつ)法要の本尊として、手早く造像された後、供養のために高野山上の関係寺院に納められ、さらに応雅阿闍梨に譲られ、細川にもたらされたと考えられます。
こちらも神仏分離の荒波を超え、村堂が受け皿となって歴史が引き継がれたのです。天皇家ゆかりの仏像が村堂に伝わるのも、高野山麓の文化的環境の高さを具体的に示すものといえるでしょう。
(和歌山県立博物館アドバイザー、奈良大学准教授・大河内智之)
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