ついに大阪城から招集が
熱い思いで戦地へ駆ける
九度山に14年間も蟄居(ちっきょ)していた幸村は、すでに48歳。「必ずや家康を滅ぼす」との気概を持ち続けた父・昌幸が亡くなり、幸村も体の衰えや、九度山で一生を終えるのか、との絶望感を感じていたようです。
しかし慶長19(1614)年、家康との対立を決めた豊臣秀頼の使者がやってきます。支度金として黄金200枚、銀30貫の大金を渡し、豊臣方につくよう幸村に要請。待ちに待った好機の訪れです。幸村はこれを承諾し、たぎる思いを胸に、息子の大助らとともに九度山を脱出。大阪城に入城しました。
全国から集う浪人たち
積極的に策を練るも―
豊臣方は、味方となる浪人たちを全国から集めていました。特に、かつて豊臣家に仕えていた毛利勝永、四国を統一した長宗我部元親の息子・長宗我部盛親、元・黒田官兵衛の家臣である後藤又兵衛、キリシタン大名・明石全登などは、幸村も含めて「五人衆」と称され、後に戦場で活躍します。また、こういった浪人たちが入城したという知らせは、家康の元へも届けられました。特に真田入城に関しては動揺し、「真田というは親か子か」と尋ね、子の幸村であると知って安堵(あんど)したといわれています。それほどに、昌幸を家康は恐れていたのでしょう。
しかし、幸村はあくまで息子。昌幸本人ではなく、戦歴もないことから、家康だけでなく、豊臣方の重臣たちからも軽んじられていたようです。積極的に徳川軍を攻めようとする幸村や後藤たち浪人の策に対し、大野治長をはじめとする重臣たちは「もっと慎重にことを運ぶべき」と、籠城(ろうじょう)策を提案。幸村たちの意見は通りません。
そうこうしている間に家康は軍を率いて大阪城を包囲し、悠々と茶臼山(ちゃうすやま)に本陣を構えてしまいます。約20万の兵力を持つ徳川方に対し、豊臣方は約10万―。倍の敵と戦うため、幸村はある申し出をしました。大阪城の中でも守りの薄い南側にある外堀。その外側にとりでを築き、城を守るという策でした。これが有名な「真田丸」。ここでの戦いぶりが、幸村の名前を全国にとどろかせることとなります。
※次回は6月27日号に掲載
ここが見どころ
「真田グッズ」
幸村に縁のある土地では、このような真田家の家紋をあしらったノートや手帳、日用品が多数販売されています。和歌山県では九度山町の道の駅「柿の郷くどやま」、土産物屋「招福庵」などで販売。真田ファンなら手に入れたいものばかりです
九度山町役場 | ☎0736(54)2019 |
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