過酷な状況においても
衰えない真田の魂
「それにしても悔しい限りだ。家康こそ、このような目にあわせてやろうと思ったのに―」。関ヶ原の戦いで破れた、石田三成率いる西軍。それにくみしたため、真田昌幸・幸村親子は高野山に追放されることになりました。昌幸は無念のあまり思わず、上のせりふを口にしたそうです。
失意の中、高野山の蓮華定院(れんげじょういん)に配流された2人は、冬の寒さを理由に九度山に移住します。その際、昌幸と幸村は別の屋敷に住むことに。これは刺客に襲われても、2人同時に討たれないようにするためと考えられています。
和歌山城主による監視がある以外は比較的自由な暮らしでしたが、悩みの種となったのは貧しさ。領地を没収されていたので収入が極めて少なく、度々、兄の信之に金子や酒を求める手紙を送っていました。そんな状況下でも知恵を働かせるのが真田家です。2人は「真田紐(さなだひも)」と呼ばれる丈夫な紐を編み、家来に売り歩かせて収入を得ながら、世相を確認させていたともいわれています。
敬愛する父親の死
一層たぎる戦への思い
さらに昌幸は「近く、必ず徳川と豊臣の戦いが起こる。その時どう攻めるべきか」と策を練り、幸村によく話していたそうです。また、幸村は父の作戦を頭にたたき込みつつ、自身の鍛錬も欠かしませんでした。屋敷を抜ける秘密の穴を用いては監視の目を逃れ川原へ出て、馬や武術の訓練を続けたといわれています。
次の戦では、必ず家康の首を…。そう願い続けたものの、慶長16(1611)年、昌幸は65歳で病気のため亡くなります。強敵家康に大きな痛手を負わせた男の静かな最後でした。父をみとった幸村は諦めずにその時〞を待ち続けました。九度山町の「丹生官省符神社(にゅうかんしょうぶじんじゃ)」には、武運長久を祈る幸村が奉納したといわれる刀が残っているほどです(現在は和歌山県立博物館所蔵)。そして3年が経った慶長19年、遂に彼の元へ豊臣家からの使者がやってくるのです。
今すぐ大阪城へ入城し、ともに徳川と戦ってくれ―と。
※次回の4月25日号では、盛り上がりを見せる現在の九度山町の様子を紹介します
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